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おっおっ

映画「魍魎の匣」についての補足。

映画を観たわたしが非常に残念に思い、若干憤りも感じた部分について、原作の「魍魎の匣」の文章をほぼそのまま使って再度述べてみたく。

魍魎の匣というお話がいったいどういった筋なのかは、原作を読んで頂きますとして、詳細はすっ飛ばして結論からいくます。

映画版は、京極夏彦の魍魎の匣を原作だと謳うなら、一番やってはならないことをしている。

原作では登場人物が以下のように語ります↓



・世間の人間は犯罪者は特殊な環境の中でこそ、特殊な精神状態でこそ、その非道な行いを成し得たのだと、何としても思いたい



・つまり犯罪を自分達の日常から切り離して、犯罪者を非日常の世界へと追い遣ってしまいたい



・そうすることで自分達は犯罪とは無縁であることを遠回しに証明しているだけ



・だからこそ(犯罪をおこした)その理由はわかりやすければ解かりやすい程良く、かつ、日常生活と無縁であればある程良い。


原作を読めば、犯人というポジションに当てはめられる人々が、さほど日常から逸脱はしておらず、世間が求めるようなセンセーショナルさはありません。

しかし映画では、犯人は精神的に異常をきたしていることが仄めかされたり、異常な執着を見せたり、頑なな崇拝を匂わせたりと、誰もが「日常から逸脱している」のです。

映画はだから、原作で説明された出来事の因果関係を、原作と逆説的に構成して表現することで、「世間の人間」の視点、思考を生々しく再現したとある意味で言えるのかも知れません。

京極氏の作品タイトルを関して、彼が否定している、恐らく唾棄しているシステムで事件を描くということは、

監督の京極氏への挑戦なのかも知れません。

先の日記でも述べましたが、映画版の魍魎の匣は、よくあるサスペンス調の物語です。

原作では今の社会に於ける犯罪者に対する世間の評価を(と言っても舞台は戦後間もない日本ですが)、「犯罪者は生まれながらにして犯罪者である」とする生来性犯罪説とほぼ変わらないものであるとし、

それはつまり、「蔡樹は変態で頭が悪くて機械萌えの気持ち奴だから犯罪を犯したんだ」とラベリングすることで納得しているということです。

血液型診断と同じようなものです。A型は几帳面、AB型は天才肌、というあのバカバカしい妄言です。

A型だろうがものぐさな人はいますしO型の天才肌だっているわけです。

そしてわたしはまだ犯罪は犯していないのです。

動機や原因とやらは、過去にさかのぼって都合が良いように後から都合よく用意されるものなのですね。

聊か脱線しましたが、

映画版はこの辺りを全く無視しています。

意図的なのか、無意識的に「世間の人」の目になってしまったのか、

わたしは、やはり原作のような視線で犯罪を取り扱うことは荷が重かったのだろうと思います。

ケガレは日常の外に置きたいもの。まるでなんでもないような偶然の到来で、自分が外にいくこと、否、いつでもきっかけは常に日常の中にともにあること、

つまり犯罪は非日常の出来事でもなければ、日常、非日常と分けること事態が現実逃避の自己防衛反応だという認識のものと作品を作るのがおっくうだったのではないでしょうか。

スタッフの全員にこの分厚い原作を読んでもらうのも大変そうですしねw

まとめると、可能性その1としては、原作者への挑戦状。

お前がなんと言おうと、現実とはこういうものだ! 犯罪はケガレであり、ケガレた異人は異常者であるに決まっている! それが「この世の中の約束事だ!」

こうだったら原作ファンでも無碍に切って捨てられませんね。結局世の中には真実正しいことなんて一つもなくて、いろんな人がいるおってだけですから。

可能性その2は……

原作難しくてよくわからないお^q^でも人気小説だから映画にしたら儲かるお! 解からないところは解かりやすく変更してあげるぼくちゃん優しい^q^

これはひどい。



他にも抜粋すると、このようなことを原作の登場人物は述べています↓

・犯罪とは社会が作るもの

・犯罪に於いて「動機」とは「世間を納得させるためにあるだけのもの」

・犯罪という非日常から日常に帰るために、自分で自分を納得させ得る理由、それが「動機」

・殺人など遍く痙攣的なもの。犯罪は常に訪れて、去っていく通り物みたいなもの

・犯罪に於いて「動機」とは「世間を納得させるためにあるだけのもの」

・犯罪という非日常から日常に帰るために、自分で自分を納得させ得る理由、それが「動機」(つまり後付)

わたしは始めて魍魎の匣を読んだ時、とある台詞を思い出しました。

「むしゃくしゃして殺った。今は反省している」

実際の言葉はちょっと、いえ大いに違っていると思いますが、最近、と言いましても十年以上は前でしょうか。

その頃から、「動機無き犯罪者」という、まるで宇宙人みたいな語感で語られる人人がメディアに登場しました。

彼等は「犯罪者」とつくからには何かの罪を犯しているわけですが、なんで犯ったのかと問われると、一様に

「なんとなく」だとか、「かっとして」とか、「むしゃくしゃしていて」

と答え、世間はそれに震え上がったのです。

そんな理由で人を殺すのか! と、多くの人が「今の若い人はおかしい」眉をひそめたのです。

わたしは当時「かっとしただけで人を殺しちゃうのかー」と変に感心し、自分も親にしかられてかっとなって殺しちゃうのかしらん、と考えたりしました。

ここまで来ればみなまで言うなという奴ですが、そもそも「そんな理由で人を殺すのか!」という驚き自体が、充分驚くに値する感想だったわけですね。

ならば、どんな理由だったらまっとうだというのか?

例えば怨恨、痴情のもつれ、金ほしさ?

いいえ、それだってまともじゃありません。

そもそも最初から、「まともな殺人の理由」なんてないのです。

殺人にまとももへったくれもあるわけないのです。

情状酌量の余地というのがありますがそれは置いて、

「かっとして殺した」と語った彼、もしくは彼女らは、実に正直だったのですね。

当時世間の人人は、人間性が地に落ちたとか、文化が駄目になったとか嘆いていましたが、これは逆でしょう。

犯罪と区分される行為を行ってしまった時の心情情況を、ようやく正しく世間に伝えられるような時代になってきたということではないでしょうか。

普通はかっとなったからって殺しません。

殺す人は、かっとなって、それで「殺しちゃいけない」という考えに思い至らなかったということでしょう。

それは、その人が生まれた時からそうだったというわけではないのです。

その瞬間、不幸にも、「殺っちゃいけない」と思えなかった、

だから本当に「かっとなって殺った」んですね。

前からにくく思っていようが計画していようが、その時は一度です。

まさに、通り物。

昔のものの本には、この通り物をやり過ごす方法も載っています。

曰く、心を落ちつけ平常心を保つこと。

かっとした時等にそれを収める術がつたなくなっているという向きはあるかも知れませんが、どちらにせよ「動機などと言うものはどうにでもでっち上げられる」のですね。

そういうわけで、京極氏の小説はとにかく示唆が多く為になります!

とても面白いので是非読んでみてくだしあ!
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