わたしと神様の話。
神様ってなんでしょうか?
ウィキってみると
神話や伝説や経典に登場する憧れや尊敬や信仰の対象となる存在、人知を超えた絶対的存在(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)、アニミズム的発想で自然界の万物を擬人化(神格化)した存在、神社に祭られている生前優れた業績で名を馳せた人物や祖先、天皇への尊称、優れた能力を発揮する人物、非常にありがたい人やものといった、様々な概念に用いられる語彙なんて出てきます。
キリスト教における「GOD」を日本語、中国語の「神」で訳することについては、既に十九世紀から議論されているそうですね。
わたしが今回ダベりたいのはこの辺りのことです。
神様と言ったら優しくて、見守ってくれて、助けてくれて。
「神様酷い! どうしてこんな仕打ちを……」
だとか
「どうして神様のくせに人間にこんな酷いことするの?」
なんて罵倒を、怖い話サイト様なんか巡るとよくお見かけします。
その解釈がおかしい、とわたしは思う。
神様は神様だからこそ人間に酷いことをするのだろうし、そもそも神様は人間に対して何もしていない。
ぶっちゃけ神様をおとぎ話の超人的目に見えない支配者ポジの本当にいる何かだと思っているのだとしたらそれは大いに間違い。
それは「法」を擬人化したものであったり、概念としての「名」だったりするだけで、自らの意志で行動したり何かと対立したりするものではない。
んだから、神様が何かするっていう発想自体おかしいよねー。
漢字の「神」を調べてみると、
「精神」、「自然の法則」、「顔つき、表情」、「姿、肖像」「不思議で計り知れない様」、「ふつうと異なる様」、「この上なく聡明な様」、「尊重する、尊ぶ」
などと出てきます。
濃度を高めて集合している「モノ」ではなく、それが集まって集合体となってモノになる以前の、つまり神とは「コト」を表現する漢字だと思います。
勿論「神」には「宗教や神話における天地万物の創造主、主催者、天の神」という意味も内包されていますが
キリスト教やイスラム教等、契約対象であるところの神様とは別の事象を示す漢字であると言えるでしょう。
その辺りの混同が「神様なんで人間に酷いことするの!」発言の蔓延に繋がっているのだと思います。
げに、ことばとは難しいものであります。
要するに日本語の「手紙」と中国語の「手紙」が其其zえんぜん別のものを指しているのと同じ現象と言えますが
より難しいのは、A≠Bでありながら、A≒Bであること。
寝る前にどうしてもお休みのキッスを彼女にしてもらわないと眠れない人がいて、
A子さんとB子さんと二股をしており、どっちのキスでも眠れるけれど、A子さんもB子さんも違う人間、だけれど彼にとってはどっちでも構わない
そんな状況であると言えます。
爆発すればいいですね。
上手い例えだったかどうか自分でも微妙ですが話を続けます。
じゃあわたしの知っている神様とは何か。
それは「自然の法則」、「精神」がとても近い言い換えになるものです。
日本ではなんでも神様になります。
なんでもと言ったら語弊がありますが、神道のやり方でお葬式をしてもらったらみんな神様になるということです。
一体神とは何か、それは「荒ぶる力」です。
自分では御しきれない、どうにもならない力、そして想い。
それを奉って、「お願いします暴れないで下さい」と拝み倒す、それが神です。
だからzえんぜん見守ってくれる存在などではないのです。
神は絶対的に上位にあり、祀り、祭る者は逆らえません。
例えばそれは川です。
豊かな水源は恵みをもたらしますが、同時に水害で多くの命を奪いもします。
「お願いです氾濫しないで下さいいつも有難う機嫌直して」
とお祀りするのですね。
治水、灌漑などして二度と川が暴れないようにしたならば、それは神を倒したことになります。
神とは、祀るか、倒すかです。
でも倒してしまったらもう神の恵みは得られません。
神の恵みとは、与えられるものではありません。
そこに在るものです。
大いなる力であるところの神は、将に傍若無人ですから、遠慮したり気前良くしたりはしません。
そういう他人を気遣ったりするのは人間がやることです。
そこにただ在るものを利用し、借り、共に生きていくのが人間です。
面従腹背かもしれませんがそれでいいのです。
心から感謝し従ったって神はこちらの心など意に介しません。
では感謝する意味とは?
それは己に還元されます。
喜ぶのは神様としての神ではなく、精神としての己自身。
崇め、祭り、日々神に感謝して、喜び、豊になるのは崇めた本人達なのです。
心が豊かになればどんな困難に見舞われても、その中から喜びを見つけ出すことが出来ます。
むしろ、悲しみがあるからこそ幸福があるということにも気付けるでしょう。
だから、神とはわたし達自身なのです。
拝礼し、敬っているのは、自然の摂理や、古の人物でありながら、同時に自分自身でもあるのです。
それはぶっちゃけ無意味な行為でしょうが、無意味だからこそ意味があるのです。
祈っても拝んでも神は動きません。
動くのは己の「神」です。
別の話をすれば、「○○様に入信しご喜捨すれば○○様はお喜びしあなたを護り幸せになれます」とかいうのは嘘っぱちだということです。
神様は何もしません。ただそこに在るだけです。
勿論世の中にはフィール&タッチの出来る神様もいるでしょう。
それも「手紙」の誤差のようなものです。
ことばはだから難しい。
さて、しかし、神は動かないと言えども、罰などはガンガン当ててきます。
例えば忌み言葉を言ったが為に死んでしまったなんて話はよくあります。
神は「大いなる力」ですから、人間の論理はもちろん、物理が通じなくても仕方がありませんね。
「わけがわからないよ」「どうしてこうなった」
だから、「神」と呼ばれているのです。
そう思うと、どうしても抑えられない自分の感情、つまり精神と
自然の摂理、理解出来るようでなぜそうなっているのかまるで解らない森羅万象
どちらも「神」と呼ぶのにわたしは納得するのです。
つまりわたし達は「神」なのです。
わたし達には法則があり、決まりごともあり、皆同じように考えたり感じたりするものとして生きています。
でも残念ながら、一人の同一人物ですらその内包しているものを自分自身で把握出来ません。
そんな、解るようで解らない、解った気で全然解っていなかった、解らないままに終わって始まるコト
それなのに、そういったことを何も考えなくても時は刻まれ続ける。
「時間」という概念を持った人間にだけ生まれた不可解なのでしょう。
そう言えばタチコマは神のことを「数字の0」と言っていましたね。それは契約対象の神のことと考えて間違いないと思います。
世の中自分の浅い考えでは理解出来ないことばかりです。
でも人間は理解できないと全てが恐ろしくて生きていけないコト。
だから「不条理」と名付けたそれらを「神の仕業」に見立て、己の「精」を納得させ、自由に感を動かすことで護る。
そんな営みから生まれた言葉の一つが「神様酷いよ!」
神を護る為に神を生み、神を罵る。
わたしの神には神を罵る必要性はございませんが、今日もまた怖い話を求めています。
神は人間の中で考えるそうですし。
因みに人間というのは、ホモ・サピエンスを指すことが一般ですが、「世間」と言う意味もあります。
人間五十年、は、世の中の五十年、といった意味。
その中でわたしはこれから何を考えていけるだろうか。