話が変わると思った?
残念! 実は折り込み外は導入だったんだ!
わたしが一番恐れていること、悲しいことは、「失うこと」であるけれども、それだけで言うと多少の語弊があるものです。
例えば、わたしが、三年以上前に、五月の十三日に、お御籤ゲームで大吉を引いたその翌日に、
最も悲しんで嘆いて恐れたことは
三國志Onlineが終了することではなかったのです。
勿論わたしは悲しみました。
子供のように嫌だ嫌だと言い続け、ごねました。
その時点で、もう、終わりの始まりのその時からわたしは解っていたのです。
「いつか終わったことなんてどうでもいいと思ってしまう日がくるぞ」
「それは何十年も先かも知れない。今すぐかも知れない。いずれにしろいつかは来るぞ」
この喪失感が、悲しみが、心中から去ることが何よりもわたしは怖くて、悲しかったのです。
幼い頃に抱いていた思いをわたしは今一つだって持ってはいないのです。
平坦な日常を繰り返す中で、ある時ふとわたしは気が付きます。
そういえばあの頃は、これを厭うていた、これを好いていた。でも今は違う。
あれほどまでに激しい感情の動きを持っていたのに、それらはどこへ行ってしまったのだろう?
行ってしまって帰ってこない。
「持っていた記憶がある」
というだけで、もうどのような感情がわたしの中にあったのか、永遠にそれは消え去ってしまったのです。
どんな悲しみもいつかは消える。
どんな恨みもいつかは和らぐ。
どんな喜びもいつか薄れることよりも、わたしは人が「良くない方」と例えるような気持ちが消えることが、繰り返しになりますが何よりも怖いのです。
それは自分が自分で無くなる瞬間でした。
変わる前のわたしにとって、それは天変地異に匹敵する出来事です。
それはわたし自信の死です。
一方で、変わった後のわたしにとっては、それはまったくなんの重みもなく、感情の揺らぎも齎さないことなのです。
死後のPCのようなものです。
生きている間は「中身を改められたらどうしようか」と戦々恐々想像するのですが、死んでしまえばそのような不安も消えてなくなります。
変わったわたしにとって、かつてのわたしが大切にしていたものや厭うていたものはどうでもよい事柄なのです。
そうなってしまったことを少しさみしいとかかなしいとか思うことはあっても、変わる前のわたしが抱くであろう絶望を
今のわたしは全く理解できないのです。想像することはあったとしても。
それはなんと恐ろしいことでしょうか。
一秒とて自分は同じ自分ではありません。
そう解ってはいても恐ろしいのです。
全てこの世は不易流行。
だからこそわたしは変遷が何よりも怖い。同じ場所に留まっていたい。過ぎた過去ばかりを懐かしむ憐れで愚かな回顧者。
それも次の瞬間にはなくなります。
どうして嫌いだったのか?
どうして好きだったのか?
一大事として守り通してきたものが、ある日突然無価値になる。
恐ろしいと同時にそれはまた、楽しいことでもあるのです。
感情の無味乾燥さ、人の心は肯定されている程には尊くはない。で、あるからこそ掛け替えがないともわたしは思います。
わたしは三國志Onlineが大好きでした。
劉備が大嫌いでしたが、三國志Onlineを始めるよりずっと前は、劉備という人物のことも、諸葛亮という人物のことも大好きでした。
今は親の仇の如くに嫌っています。
かつてのわたしは今のわたしを見たらどう思うのでしょうか。
幸か不幸か、そのようなことは金輪際絶対起こり得ません。
わたしは生き続けながら常に死に続けているのです。
生まれ続け、死に続けているとも言えるでしょう。
人は皆そうでしょうか。そうではないかも知れません。
でも隣同士になって、同じ道を歩いていた筈が、気が付くと全く違う道を歩んでいて、時が過ぎ去れば姿さえ見えなくなる、そんな風にわたしの目に世の中は映っているようです。
離散。
始め、同じ目的の為に集いました。
そしてバラバラになりながらも、心は繋がって、目的は果たされます。
その後はどうなるのでしょう。
新の離散です。
心は繋がったままなのでしょうか。
でも、生きている限り、繋がりは増え続けます。
人生のその時々で、人が必要とする人は、変わっていきます。
それは当たり前のことです。
悪いことではありません。
でもやがて、灰色港から彼らが旅立って二度と顔を合わせることがないように
離散していく未来が見えることは何よりもわたしにとって悲しいのです。
心でつながっている、と言われても、面と面を合わせ、肩をたたき合ったり、言葉を交わすことが出来ないことは、どれだけ寂しいことでしょうか。
心がつながっていればこそ、いいえ、心が「繋がっていた」からこそ悲しいのです。
そんな繋がっていた何かが消えていくこと。
更に言うなら、大事だと思っていた気持ちが消えることは、わたし自身の離散とも言えるのです。
離散は他者との間にのみあるものではありません。少なくともわたしにとっては。
今この瞬間に自分を構成している何かが、ばらばらに散って、散り続けて、気が付かない間に消えている。
気が付かない間というのが一層に悲しい。
誰にも気づかれないどころか、自分にさえ解らない間に。
離散していくわたしを構成する何か、それは、わたしの感情であり、かつての友人そのものでもあり、本や、映画や、わたしが知っている全てです。
結局自分自身の離散と言うのは、外的現象であると帰結されるかも知れませんが、わたしは「外的」というのは脳が見せる幻であるような気がしているので、結局全ては内的なこと言えます。
世の中が幻であると言うのなら、幻を見ているこの自分こそが幻です。
それならばどれだけ離散していこうが構わないのかも知れません。
でも、幻だろうとなんだろうと、構成する要素が消えていくのは、そして気付いていないのは怖いのです。
わたしが何よりも、あの五月十三日に何よりも恐れ悲しんだのは
その悲しみが消えてなくなることでした。
今わたしは、どう思っているのでしょうか
過ぎた日々のことどもを。
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