エルフとオークは表裏だと思うのですが如何でしょうか。
欠点の無い唯一無二の美。
本来持つべき醜悪さがどこにもないのは、それらを全てオークに押し付けてしまったからではないでしょうか?
本来必ず持っている「嫌なところ」を「持っていませんよ」と涼しい顔が出来るのは、それらをオークにおっかぶせてしまったから。
だからオークは美しいものを憎むし悪逆だ。
彼らは叫びたいのです、澄ました顔をしないでくれ。あなたがたが生きているのと同じ場所に私達はいる。
目をそむけないでくれ。私とあなたは決して相いれない物ではない、同時に存在しているものなのに。
目を背け、口を閉ざし、耳を塞ぐなら、思い知らせてやる。
生き物であることを悲しいと、醜いと思うのなら、相応の痛みを。
汚泥があることを認めないのならば、相応の損失を。
汚いんだ、ということを受け入れられないなら、それは気高く生きていることとは同義でなくなるのではないでしょうか。
あるがままに、あるがままを受け入れられてこその生。
だからエルフは死なないし、生きてもいない。
生々しさが無く、清らかで、人間のこうだったらいいなあという願望の具現です。
しかしそれは間違いなのです。
汚れていることは悪いことではない。
醜いことは厭われることではない。
それでもやっぱり美しい方がいい。
そうやって「美しい方がいい」と思ってしまうことが嫌だから、「美しくない」という現実を無かったことにしたのです。
それがエルフという存在で、「無かったことにされた」事象がオークや、悪の軍勢というわけの解らない矛盾なのだと思います。
とてもキリスト教的だと思います。
性善説ともいうべきか。
本来自己の中には汚点は無く、どこか別の場所にそれらがあって、常に精錬な自分達の魂を苛んでいると。
でも本当は、苛む全てのことどもは、己の中にこそあって、それは「内側」にあるというよりも、己自身、自分そのものなのです。
それは恥ずべきことではないのです。
性悪説です。
本来悪逆で非道であるけれど、学ぶことによってその性質と正面から付き合っていくことが出来るのです。
悪いものだと蓋をするのではなく、認めること。
認めて添っていくこと。
その目を背けたい現実も、自分自身に他ならないのですから。
美しくなりたいと思う心も、許されざるものではないのです。
嫉妬も優越感も何もかも。
その作用を恐れ嫌うのではなく、どのような効果があるのか、目をそらさずに向き合うことが人間という事象そのものではないのかとわたしは思います。
向き合わずして、この生に産まれた意味があろうか。
産まれてきたことに意味はなくても。
そんなわけでわたしは、オークが元々エルフだったというのもよく解るし、エルフのせいでオークが生まれて、それについてエルフは自分の責任だと思ってもいないし、気付いてもいないし、それが真実だと告げられてもわれ関せずを貫き、聊かの悔恨も抱かない存在だと捉えています。
完璧で、美しいけれど、それは概念であって、血と肉の交流は望み得ない。
エルフは生命ではなく、幼稚ともいえる、妄執ともいえる「概念」なのです。
オーク等の「絶対悪」が概念であるように。
そんなところがアンチエルフの理由になっているのかも知れません。
映画観ていてもそんなにガラドリエルにくどさを感じたりはしませんでしたが、それはわたしが浅はかだからでしょう。
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