そのことを思い出したくないのではありません。
書きたくないのでもありません。
書けないのです(´・ω・`)
その技量がないのです><。
なら諦めろよ!!!!!
書き進めていく内に気付きました。
あの、泰山魏の運命を大きく変えたと言ってもいい出来事、「激討論会」に至るまでの一連の出来事について、
わたしは未だに自分の中で答えを出せていないのだと。
そもそも、わたしはあの出来事の中で、どんな立ち位置であったのかというそれすらも決めかねているのです。
泰山魏民であったというそれだけで、あの出来事はわたし自身の出来事で、わたしの物語です。
しかし、あの出来事は、本当はわたしは立ち入る隙も無いくらいに部外者であるとも言えます。
例えるなら、家の裏にある山で好きなだけ遊んで幼い頃を過ごしたけれど、自分はその山の持ち主ではない、ということでしょうか。
山の持ち主はわたしのことを知らないどころか、知ってたとしても山の手入れやあるいは売却にわたしの存在は全く影響を及ぼさないのです。
ここでいきなり話がぶっ飛びます。
かの偉大なる詩人、谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」という素晴らしい詩をご存じでしょうか。
こちらで読めます→
http://www.poetry.ne.jp/zamboa_ex/tanikawa/6.html詩の読み方、解釈の仕方とは、人によって其々、千差万別であると思います。
正解も不正解もなく、でもどこかしら誰かしらに自分の意見を主張したりするなら、揺るがぬ根拠が必要となるでしょう。
誰かが感じた思いを否定するのにも、同様に揺るがぬ根拠が必要でしょう。
それを受け入れるかどうするかは受け手次第なのですが。
以前にもこのブログでわたしは書きましたが、ことばは発した者のものではなく、受け取った者のものです。
ことばの中身に命を与える、つまり意味を見出すのは受け手なのです。
でも、解き放たれてどこまでも自由になってしまったことばは、それでも発話者の親権を永遠に保ち続けるのです。
さて。
「なんでもおまんこ」です。
女性の中にはセクシャルなことを厭う方も多うございます。
男性の中にもおられるかも知れませんが、大概エッチなことは大好きですね。
その突き動かされる御しがたい感情の根底にあるのは、わたしは「母体回帰願望」だと思っています。
人間はすべてみな女から生まれます。
男も女もどちらでもないものもみんな女から生まれてきます。
女はどこまでいっても女ですが、男はどこまでいっても女にはなれません。
女は自分も母になれる可能性を持っていますが、男は母には永遠になれません。
女は常に、自分の中に、自分自身に、自分の来し方を抱き続けることが出来ます。
女は生きながらにして母体回帰が出来るのです。なぜなら同一でもあるからです。
しかし男は、二度と母と一体になることは叶いません。
生まれる前と死んだ後は同義ではないでしょうか。
母の腹の中というのは、生であると同時に死。
人間は、母と一つになりたい、母と一つであった頃に戻りたい、と願い続けているのではないでしょうか。
母とは、自分をこの世に産み落としたその人のみを指すに留まりません。
己の目に映り、耳に聞こえ、舌で味わい、鼻に香り、肌に触れる世界、五感以外で見つけるなにがしか、自分をとりまくすべて、あるいは自分自身。
世界とは何かと問うた時、わたしはそれを自分だ、と答えます。
わたしは他人になったことは一度もありません。
生まれてから死ぬまでずっとわたしはわたしです。
だから、他人の目から世界がどんな風に見えているのかを知りません。
しかし、わたしの目から見える外界はとても滑稽です。
全てがわたし中心に広がっています。
真ん中に自分がいます。
永遠に自分の顔を直接見ることはできません。
自分の考えていることは手にとるように解りますが、目の前にいる、自分よりもはっきりとその姿を確認出来る人々の考えていることは、まったく解らないのです。
わたしは子供の頃から不思議でした。
どうしてわたしなんだろう、と。
なぜ「意識」というやつはこのわたしに繋がっていて、わたしのものしか解らないのだろう、と。
どうして他の誰かではなかったのか。
なぜ主観が備わっているのがこの自分だったのか。
あの人でも、またその人でも良かっただろうに。
世界を除く窓は、ここでなくても良かったはずなのに、どうしてわたしなんだろう。
わたしは一体誰なんだろう。
あの人も、またあの人も、こんな風に世の中が見えているのだろうか。
草の色、揺れる様。空の移り変わり。風の音。
この違和感をことばで表現するのは難しいですが、一番近い表現はゲームの主観モードというやつでしょうか。
自分の姿は見えず、あるいは腕や腹や足などは見えるのですが、自分の周りにあるものは見えるという状況です。
これがいまだにわたしにとっては不思議な現象なのです。
ここが世界の中心ではないということは解りきったことです。
なのに、広がりは自分を真ん中に置いて始まっていきます。
この自分を通してしか世界をしることはできないのか。
例えば誰かと話をしたり、本を読んだりして新たな見方や世界を得ることは出来るでしょう。
でもそれも、自分を通してしか出来ないことなのです。
それがとても怖かった。
正直に言うと今でも怖いです。
全部自分が見ているものはまやかしじゃないとどうやって証明することが出来るのか。
胡蝶の夢であっても何一つおかしいところはない。
だからわたしにとっては、全てがわたし自身なのです。
あの人も、この人も、あれも、それも、どれか一つが欠けてもわたしにはなりません。
世の中は「コト」と「モノ」で成り立っているとはよく言います。
しかしわたしは、世の中は「コト」のみだと考えます。
「太陽」はモノですが、わたしは「太陽」を太陽というコトとして受け止めています。
全ては連続の事象、自分の皮膚に継ぎ目がないように。
それならば、空気と自分の体の境目だって無いだろう。
壁があったって屋根があったってわたしは世界中の全てと接触している。
そう、「なんでもおまんこ」です。
でもまだ続きますサーセン。
この世で最も尊いことは、「和合」なのかも知れないと最近思い始めました。
人も、人でないなにかも、すべての事象は、和合する為に誕生したのではないだろうか。
和合とは、全てを一つにすることではありません。
グローバリズムなどではありません。
和合して解るのは、どこまでいっても人は一人で孤独で、だから和合することが出来る、ということではないでしょうか。
孤独だから、切れているから、だから目の前にいる誰かの顔をよく見ることが出来、夕焼けの色を数えることが出来る。
似たようなことをマクロスFでアルト君が言っていましたが。
でも、だからこそ、人は母に還りたいのではないだろうか。
全てが一つだったあの頃に。
子供にとって母は神であり、世界そのものではないでしょうか。
生まれ出でてから彼の世界はどんどん広がっていきますが、母と一つであった時が狭い世界だったとは思いません。
全ての始まりでもあり、終わりでもあり、始まりの前でもあり、終わりの向こうでもある。
産み落とされた命は、世界を得て、あるいは失って、自分と世界の繋がり様を知ろうとする。
わたしは「モノ」ではなくわたしという現象そのもの、コトだと述べました。
友人も、過去にあった出来事も、時の進みもその辺に転がっているティッシュも含めて初めてわたしとなります。
でもそれは甘い幻想です。
友人には友人の世界があり、過去に何があろうがわたしがそこに及ぼした影響はなく、時の進みとわたしの命に関連性はなく、ティッシュはただのゴミです。
或いは、わたしが現象だとするなら、わたしの現象を構成してもいる、例えば友人Aさんにとっても、わたしはAさんの現象の一部となります。
同時にそこに存在していながら永遠に合致することはありません。
しかし、全ての現象がわたしであることと、それがただの幻想であることと、個人は結局孤人であることは互いに矛盾しません。
人間がなぜ人間なのかといえば、社会があるからです。
社会は機構であり現象であり、人間もまた現象と言えます。
ならば、人間という現象は、個人という現象は、妖怪の「ぬえ」にそっくりだとわたしは思います。
見る角度によってまったく違う様を示す。
Aさんからみたわたしと、Bさんからみたわたしは、全く異なった現象になっているでしょう。
好悪に始まり、色や音、厚みも違うはずです。
ならば今ここでキーボードを打つ「わたし」は存在していないのと同じです。
Aさんの中にわたしというまやかしが存在し、Bさんの中にわたしというまやかしが存在するだけで、それは今ここでキーボードを打っている「わたし」とは、実は全く無関係なのです。
「あなたは本当の私を知らない!」
昼ドラやらサスペンスやらラブコメやら、様々な物語できかれる言葉ですね。現実世界と言われる場所でも聞くことがあります。
それは知らなくて、解らなくて当然です。
わたしが思うわたしと、Aさんが思うわたしは別モノなのです。
それでも不都合なく回っているのが世の中です。
乖離している「わたしが思うわたし」と「Aさんが思うわたし」をイコールにする為に活躍するのが「ことば」でもあります。
が、しかし、逆に「ことば」があるから現象が「ぬえ化」もするのです。
言い尽くしても、言い尽くしても、重ならぬ想いに世界は満ち溢れながら、まるで問題なく進んでいきます。
社会を形成し現象として出現しそれを認識することなく生活するわたし達人間は、常識と呼ばれるモノ、固定概念と呼ばれるモノなくしては、だれかと関わることは出来ません。
社会規範にそぐわぬ者は排斥されてしかるべきです。
そうでなければその社会は崩壊します。
そして、社会には聖も邪も、成否も、善悪も、何もないのです。
個々人が己の生きている場所をどう思うのかもまた千差万別ですが、人間である以上社会規範を守ることは第一条件です。
社会制度について良いとか悪いとか言うのはまた別の次元のお話ですが、それだけについても、人によって捉え方が違うわけです。
全人類が全人類を理解することは出来ないでしょう。
でも、受け入れ方の工夫は幾らでも出来るでしょう。
グローバリズムとは本来、差異を認め、排斥せずに受け入れていくことだと思います。
随分話が逸れたようですが、やっぱりまだまだ「なんでもおまんこ」の話です。
先に述べましたが、この詩を読んで思うことは人其々千差万別でしょう。
わたしが思ったのはここまで述べてきたことどもです。
そして更に、この世界と和合したいという欲求は、どこまでも孤独な人間の生を嘆くのではなく愛おしみ、慈しむことではないかと思いました。
あなたと合体したい。
今更ながら、いい言葉だと思います。そういう意味の言葉じゃねえけどな!
誰かを、何かを、もっと深く知りたい、理解したいという欲求。知らねば、語れぬのです。
前へも後ろへも進めぬことにもなりましょう。
随分長々と書き続けてしまいましたが、「なんでもおまんこ」を読んで、母体回帰願望、つまり世界への和合願望、
更にそれは自分自身が確かに存在しているということを強く認識したいという欲求なのだとわたしは感じました。
あ、今更ですけれど和合とはセックスのみを指しているわけじゃありませんよ!
そういうわけで、「激討論会」のこと、別の言い方をすれば「迅速にこたえろ! 事件」、あるいは「個人のブログに原発落としました事件」を書くにあたり
度胸も文才も無く器も小さいわたしは
まどろっこしい決意表明でもしてみなければ先へ進めそうにもなかったというそういうお話でした。
結局どうやって書いたものかとまだ迷ってますよ!!!
個人のプライベートに関わるし……中傷記事になりかねないし……主観に寄りまくるし……
いえそもそも「合戦黙示録」シリーズは主観でお届けするという体裁なわけですが。
今更、もう終わったことを、なぜわたしが、その資格あるのか、と自問は尽きませんが
四節魏を語る上で絶対不可欠の出来事ですし、今まで述べてきましたように、全てのものごとが「わたし」です。
というわけで頑張って書きます。
おっぱいぷるんぷるん!
カテゴリ迷ったけれど発端は3onのことだから追悼でいいや。
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