むしろ彧様が魏公就任押せ押せで、曹操様がしぶっていた。
それをふんぎらせる為、病身であった彧様は死期に併せて「曹操様が彧様に空箱贈りつけた!」」という噂を流し曹操様をあうあうさせた。
という説も好きですし、
魏公就任と共に反曹操派を一気に炙り出す作戦を曹操様と彧様は企て、反目してます~みたいな芝居をしていたけど、彧様が急死しちゃった。
という筋も好き。
そして、蒼天の、漢と曹操様の間で揺れ動く彧様も好き……!
曹操様が曹操様であるように、昱が昱であるように、荀彧もまた荀彧である。
「こういうことか」って言ってた彧様は夢の中でそうおもったのか、現の中でそう悟ったのか、どっちなのかなあ。
どっちだっていいのかな。
ともかく泣いた。一緒にいたかったろうになかなか一緒にいられず。・゚・(´Д`)・゚・。
そして丕君……。
禅譲受けた時どんな気持ちだったんだろう。
彼は何度も何度もしつけえくらいになっがい手紙書いて辞退して、
臣達は何度も何度も禅譲受けれって上奏を出すし。献帝も受けれって言うし。
なんのこともなく受けちゃっていそうでもあるけれど、
でもだからこそ、彧様の予想した未来図の中にいる丕君の表情が凄くいいなあって思うのです。
まあなんていうか丕君好きだわw
合戦の後に激論会というものがありましたのですが、凶さんがあと二週間で終わるゲームとは思えない、と仰っておられました。
その言葉を聞いて、ほんとうに、そうだなあって 胸が熱くなりました;;
あと二週間足らずで跡形もなく全て消えてしまうのに
これだけの人がいて、色んなことを考えていて、
ああ、世界が終わる時もきっとこんな感じなのだろうと思いました。
誰も思考を停止することはないし、終わってしまうその瞬間までわたし達は生きているんだなあと。
わたしは人の気持ちなんて解かるはずがないという信条です。
そしてもう一つの信条は、「ことばの意味は受けてが付与するもの」。
「思いやりは立場が同じ人同士で有効」という教えを頂いたことがあるのですが、その言葉は今迄「思いやりあっていれば世界はピースフル」と思っていたわたしには頭を殴られたような衝撃でした。
それは、同じ世界に生きている人同士は、ピースフルでしょう。
でも、世界は、世間は一つではないのです。
一人一人、似ているようで、ずれている世間に生きていてる。
世間や世界のことを、信念とか信条とか、国家とか地域とか流儀とか思想とか夢とかそんな言葉に置き換えられるかも知れません。
全然違っているけれどでも似ている為に、ずれていることに気付けなくて、なんですれ違ってしまうのか、分かり合えないのかと、そんなことで亀裂が入ってしまう。
例えば、「あ」と発声してみた時。
その音は、機械なんかで解析すれば、一人一人全員が全く違う構成になっているのです。
でも、それらをわたし達は「あ」として認識し、ききとっている。
脳が作ったまやかしの中に生きていて、だけど、まやかしで、不完全なのに、不自由することは滅多にないのです。
外国に行って習慣の違いに驚く、というのは多々ある体験ですが、じつはいつも一緒にいる友人の行動を理解出来ない瞬間があったりもします。
でも理解出来ないのは当然で、わたし、と、かれ、は全く別の人間であるからなのです。
おなじ共同体に住んでいようが母国語が一緒だろうが兄弟だろうがそれぞれの生きる世間は違っている。
ただ、酷く似ている。
そして時に、自分の世界が全てだという思い違いをしてしまう。
それは、みんな似ているのだから仕方のない勘違いなのです。
昔、青森や福島から東京に働きに来た人たちが、方言を馬鹿にされて自殺したりしたように
当たり前のことが、当たり前でなく、正しいとか間違っているとかそんな部類のものではないのに、衝突し、淘汰されたり。
淘汰して残ったなにがしかは、おのれこそが正しいと信じてしまう。
それをわたしは恐ろしいと感じました。わたしもそのように生きてきたのかと思うと恐ろしかった。
誰も彼もが、そのいびつに歪んでいる様に気付かないまま、やがて一生を終え、そしてその後も歪んだ世界が続くのかと思うと、怖くて仕方がありませんでした。
その枠の外側から見なければ気付かないことなのかもしれませんが、この世界には端っこもきれっぱしも上も下も横も真ん中もないのです。
みんながみんな、どこかの地面の延長にいて、全く無関係そうな場所も繋がっていたりする。
だから永遠にずれてしまっていることにも気付けないんじゃないかとわたしは更に恐怖をつのらせるわけです。
それでも、子供の誕生を喜びあったり、サッカーの試合にみんなで一喜一憂したり、些細なことで喧嘩したり、そういうふうに一緒に誰かと生きていけることが、わたしはこの上もなく幸せです。それは繋がっているからなのです。
ずれてずれてずれまくっているわたし達の似通った世界で、わたしは一生一人ぼっちで、自分のことも理解出来ず、誰のことも理解出来ず、誰とも解かりあえないまま死んでいくのかも知れません。
解かりあえた、と思ったのも、勘違いかもしれません。
でも既に、生きて認識していることの全てが、脳の見せている幻なんだなあと思うと、更に切なさはつのります。
自分の言った言葉は、自分が望んだのと違った意味で相手に届いているかも知れない。
そもそも言葉の内包する意味は、共同体で統一されてはいるけれど、それでもやっぱり受け取る個人によって変わっていく。
言葉は放たれた瞬間、もう放った人のものではなく、受け取った人のものになるのです。
それでも、飛び立っていった言葉の親権は、発した人に在るのだと思うと、それも世知辛い。
自分のものではすでになくなっているのに、どうしようもできないのに、自分のものであると世間は認知している。
おかげさまで、未だに孔子の喋った内容をまとめたとされる「論語」が研究されていたりするのです。
だから何度でも何度でも言葉を重ねよう。
失敗しても、ずれても、間違っても、何度でも。
諦めたらそこで試合終了ですよってホワイトヘアードブッダが言ってた。
押しの一手であの子を振り向かせようと頑張る、わたしは格好悪いダメ男のように、この世界っていう魅力的な女性の中で生きているそんな気がする。
でもぶっちゃけわたしが杞憂するほど世界はずれちゃいません。
お陰様で今日もごはんが美味しいのです。
言葉と世間の問題はわたしにとって永遠のテーマだなあ。
そもそも意思の疎通をはかれること自体がなんて美しく尊く素晴らしいことなのだろう。
でもそれが勘違いの上に成り立っているとか、余計に命が愛しく思える。
わたしはやっぱりことばというものが大好きです。
まあ、いつも通り3onと全然関係ない内容になりましたw
激論会では、誰も彼もが、色んな思いで、悲しい気持ちを抱いていたのじゃないかなと思います。
対話、意思疎通、ことばのやりとり、そういったものを断絶するのは、その裏に怒りや諦めなんかがあるようにみえて実は、根底に悲しみが眠っているのかな。
理解してもらえないのは当然で、だって最初から人はお互い理解し合えないのだから。
ことばが伝わらないのも当然で、だって最初から意味を与えるのは受け手なのだから。
それでも一緒に生きていけるのは、何度も何度もことばに気持ちをのせたり、他の色々なもので、お互いが見ている世界を摺り寄せていくからなのかな。
言ったところで解からないのだから、言うことをやめたのがゆうれいこへいじというわけですね。話飛びますね。
言っても伝わらないけど言わなきゃ伝わらない。
あとは相手だのみなのかな。聞く耳もってもらえなきゃ伝わらないしね。
聞いてもらえるようにわたしはもっと、言葉を上手に使えるようにならなきゃいけないなあ。
そして、上手に言葉を聞けるようにならなくては。
少なくとも、沢尻さんにブログ読むの大変、言われているうちは、まだまだ精進が足りませんね(/ω\)