宣言通り二節を振り返ってみます(キリッ
二節のお話はここで一度やったとしても、何度も繰り返しやっちゃいそうです。
二節に限ったことじゃないけどな!
三頭さんHPでも有名な「その時歴史が動いた 魏に脳筋あり ~泰山魏 第一節制覇戦の軌跡~」でも語られているように、
一節の魏は奇抜というか奇妙というか「( ゚д゚ )」な動きで他国を圧倒しておりました。
正式開始と共に廃人級の主力が抜け戦力低下した呉。
万歳突撃だ、棒立だと言われていた蜀。
蜀はとくに、三国中最も数が多いこともあってか、なかなか一丸になれないでいるようでした。
あの頃わたしは、魏が負けるなんて考えられませんでした。
魏は最強だった。泰山と言えば魏、魏と言えば泰山、三國志Onlineと言えば泰山魏。
それくらいに有頂天でした。
わたしはなんにもしてねえのにな!
ですが、奇怪な動きをする魏軍も、落ち着いて対処すればただの脳筋塊。
一足先に突撃連合スタイルを身に付けた呉や、当初から「なぜあの人数を活かさないのか」と他国に首を傾げられていた蜀がようやく国の利点を活かし始めたことで
魏は、まーったく勝てなくなってゆきました。
そしてこれはわたしの偏見なのかも知れませんが、運営は明らかに蜀に肩入れをしていました。
そして泰山魏がお気に召さないようでした。
幾つかのうpデ、調整は、まさに「出る杭」どころか「出た後反動で顔面にぶち当たる杭」な泰山魏を地面の奥深くまでめり込ませようとしたものであったことは明々白々です。
一節に猛威をふるった城門破壊については、2chで面白いレスが頻出しました。
よく覚えているのはこんな流れw↓
魏が城門割り過ぎる合戦時間短くなんだろクタバレ!→やらないと約束しろ!→魏発みたいなこと言ってるけど最初に城門割ったの蜀だよ
わたしは城門割り出したのは魏国だと思っていたので意外でした。
勿論本当かどうかは知りません。
因みに城門破壊について、わたしは一魏民として、勝利という目的に城門破壊という選択肢があり、その合戦の状況によって城門破壊以外勝利する選択肢がないなら、城門壊さないほうが頭がおかしいと思っておりました。まあわたしは元々頭がおかしいわけですが。
四節までずっと同じ考えでした。だから他国が城門割ろうが引き篭もろうが文句はありませんでした。めちゃくちゃ悔しかったけどね。どんな状況だろうが負けるとめちゃくちゃ悔しいのは同じ。
引き篭もられたら割って勝てばいいし、割りに来られたら全力で護る。
相手に割らないでとか篭らないでとか言うのはなんだかおかしいですよね。わたし達はスポーツをしているのではない。
戦争をしているのだ。
いいえゲームです。
全然二節の話にならねえな。
この辺りまた別の機会にとっておいてさっさと話を進めますフヒヒサーセン。
魏の勝てない日々が始まりました。
そもそも一節にあれだけ勝ちまくっていたことがおかしかったのかも知れません。
勝ったり負けたりが通常で、勝ちばっかりというのは異常だったのでは。
しかし、我等は勝ちたい。一節のように。勝たねばならない。負けられない!
でも現実では負けまくっておりました。どうしてですかというくらいに勝てませんでした。今でもなぜ勝てなかったのか解かりません(キリッ
一節には、正直に白状すれば、「弱い、負けるはずがない」と馬鹿にしていた蜀にもフルボッコにされる日々。
「蜀が強いなんて嘘だッ! 勝てないのは蜀が強くなったからじゃない! 魏は優勝して気がゆるんで、つまりわれらの怠慢のせいだ!」
そう思っていました。
でも違います。
蜀がめっちゃ紅白戦をやっていたのを知らない人はいないでしょう。
イナゴだ農民だとバカにされて黙っているはずがない。蜀もまた三国の戦士なのである。強くないはずがない。
とあるフレが、魏が勝てなくなったのは一節優勝して満足しちゃったからだ、系のことを言っていました。
優勝して気が抜けたというのは確かにあったのかも知れません。
でもわたしはそんなつもりはありませんでした。いつでも勝利に飢えていて、バイオレンスを求めておりました。
しかしわたしが一人相撲をしたって国が勝てるはずもありません。
そもそもわたしが一人で相撲をとっても捻挫するのが関の山。
一節の頃、魏は誰が決めたかどうしてそうなったのか、
合戦開始三十分前に、許昌のあのだだっぴろい無駄なスペースの最たる場所、宮城前に集まり、作戦会議を開いておりました。
三陣それぞれの場所に分かれるのですが、合戦管理官前、太鼓のある場所、もう一陣はインス2でした。
他国のスパイ(笑)が堂々と盗み聞きしにきたこともございましたw
その為かどうかは解かりませんが、会議の場所を変えたりもしました。
自由参加、発言自由の会議。しかし発言する人は偏っており、疎外感を感じておられる方もおられました。
義務として傍聴に参加させられている方もおられたでしょう。
しかしほとんどの人が聞きたくて集まり、発言したくて発言していたと思います。
よく発言される方の中にはほんのちょっぴりだけ言動がとげとげしい方もおられましたでしょうし、ほんのちょっぴりだけそういったことに敏感な方もおられたでしょう。
しかし会議はおおむね平和的、協力的、建設的で実に楽しいものでした。
わたしのお脳は残念なので話の内容はまーったく理解出来ていなかったと思うのですが、それでも好んで開始前に所定の位置に座りこんで必死に聞いておりました。
合戦直前までらべりんぐをしたい部曲員さんや、インが遅くなる部曲員さんの為に要点をまとめて、あとで伝えるなんていう役割も楽しみの一つだったりしました。浅はかながら、役に立てている! と実感出来ていたのです。
あさはかさはおろかしい
事前会議があるなら事後の反省もございました。
一陣、二陣、三陣、それぞれどんな流れだったか、報告し合いました。
当初は同時開催だったので、夫々の陣の内容を聞けるのは純粋に楽しかったです。
自分の参加した陣についての白チャが流れてこないと、わたしは差し出がましくも戦況の流れを語ったりもしていましたwほんと楽しかったなあw
一つの陣ごとに流れを把握し、どこが勝利のポイントとなったか、または敗北の原因になったかを話合い、挽回し、活かす為にはどんな戦略でいけばいいかなど活発な意見が出ておりました。
小国である魏には、敵の分析なんかも必要以上に必要だったのですね。
とにかく情報が大事でした。
魏の情報量、質向上への努力を支えたのは、この頃からなのですね。
四節では「情報の精度が下がった」と沢山の盟主さんが嘆いておられましたが(´・ω・`)
さて。
そんな事前会議と反省会ですが、いつの頃からか行われなくなっていきました。
特に反省会。
勝ったから反省しなくていいや、負けたけど面倒だから反省しなくていいや。
あるいは忙しいからか、
反省会はジョジョになくなっていきました。
そして事前会議もいつの間にか無くなりました。
いやあったのかも知れませんちょっとよく覚えていませんごめんなさい凡愚。
今でもよく覚えているのは、徳田さんがある日の合戦で大量のクレーム対話に会い、その処理に疲労困憊なされておられ
それについて駄亜さんから対話がきたこと。
当時体験垢は長安まで来られ、変な券がなくてもイベント合戦には参加出来たので、魏民増量計画として長安から合戦参加しませんか、というお誘いと共に、駄亜さんは
「徳田のやつ大変だから、もしよければお疲れ様、と一言声をかけてやって下さい」
系のことを仰いました。
正直駄亜さんのキャラがどんなキャラだったかよく思い出せません。会議でも活発に意見を仰っておられた方で、徳田さんと仲が良い方なのかな、とそんな程度の認識しかありませんでした。
あと39皮装備でらっしゃいました。
ある日の事前会議だったでしょうか。
徳田さんの作戦になぜか、どうしてなのか、駄亜さんがキレました。
駄亜さんが酔ってる、と誰かが言いました。
徳田さんは「お?wwww」と混乱してらっしゃるようでした。
そしてその時からほどなくわたしは、お二人をお見かけしなくなりました。
ほんとうにあれは、何があったのか今でも解かりません。ただどうしようもなく悲しかった、分かり合っていたけど、分かり合えないのだろうかとか。
何もかもが上手くいっているように見えて、上手くいかないことが往々にして有るんだということとか。
そんなことを少しだけ思いました。
二節初期はすっかり事前会議も反省会もなくなっていたと思います。
しかしそれが復活しました。
反省会です。
場所はお寺の庭になりました。どこ吹く風と闊歩するNPCの僧侶にわろたw
更に、部曲間の友好度を高めようと、毎週木曜日に座談会が開かれることになりました。場所は各部曲砦持ち回りで、今にして思えばすごくいい機会だったと思います。
この件については以前にもちろっと書きましたが、わたしは大変にバカでした。
全く勝てなくなった魏。
変わらねば、勝てない。
でもわたしは過去の栄光の残光にしがみ付き、変わることを嫌がりました。
ひょっとしたらわたし以外にもそんな方はおられたかも知れません。
徒党単位、ひいては個人単位から、連合も部曲も関係なく国一つとしてまとまるという戦い方。
それと決別し、連合としてまとまり、連合単位で連携していくというやり方がわたしにはどうしても悪いものに見えていました。
「目的と手段が取り違えられている」
という主題で延々と論文めいたものを綴る毎日でした。
その時の痛々しいわらばんしはまだ残っているかも知れません。くろれきし。
「合戦の目的とは勝利することであり、連合は目的の為に選ばれる数ある手段のうちの一つである。しかし今日の魏においては、いかに連合を組むかということが目的となっている」
「また、連携が大事であると説くが、どのように連携をとるのかという具体性が欠けている。これでは言葉面の中に本来抱えている問題を覆い隠しているに過ぎない」
系のことを書いていたよーな。
わたしは何を言っていたんでしょーね。ばかだねえ。
つまりそういうことなのです。
合戦の目的は勝利である。しかしその前に連合を運営しないと勝てない。
だから目的がまず連合になっていた。
連合を組め、話はそれからだ。
そういう状況だったことを当時のわたしはまるで解かっておりませんでした。
座談会についても「ただの馴れ合い」「結局何も変わらない」「パフォーマンスだけ」とか散々に言っておりました。
それでも参加はしていたのかな。
しかし、馴れ合いだあろうが、何も変わらなかろうが、パフォーマンスだろうが、何かをすることこそがその時は大事だったのだと今は思います。
むしろ、なんとかして現状を打破しようとするみんなの気持ちをまるで考えられなかったわたしは救いがたいバカでした。
この国にどんな人がいて、何を考え、どうやって遊んでいるのか、もっと知ろうと思えば知りえたことが、未発見のまま今は電子の海に消えてしまった。
その頃すでに大多数の人が「3onおわる」と思っておられたでしょう。
それでも行動していた。
何かの事象の原因、要因というものは一つではなく、いくつものコトが絡み合って認識されるまでに至っている。
たった一つの根本的な理由に辿り着くのは至難。なぜなら人の数だけ世間と世界があり、関わり方によって千変万化するのだから。
だから手当たり次第に出来る事ならなんでもしてみようっていうのは好ましいことだったのに。
と今は思っても、当時のわたしは、「無駄なこと」だと思っていたのでしたばかめが。
結局座談会にも途中からわたしは参加しなくなりました。単純に忙しかったのかも知れませんが。
ですが、座談会などが効果を上げたことは、今のわたし達がこうしてあることで答えになっていると思います。
そして、画期的だと思ったのが、非固定司会者による反省会でした。
最初、復活した反省会には司会がいませんでした。
そしてだらだらといつまでの長く続き、そのくせ何一つ決まらないというものになっておりました。
そんなある日の反省会で、夏侯淵之弓の狙さんが立ち上がりました。
一節最初の頃、Yさんによってまったり淵奏会と夏侯淵之弓と淵神とで合同連合を組むという話が持ち上がり、しかし自然消滅し、ご縁も切れてしまったかと思いきや
色々あって……実は良く覚えてない!……弓さんとはご縁が続き、PD等も一緒に行かせて頂いたりしておりました。
ぼく司会します、と進み出た狙さんは「タイムキーパー欲しい」と仰られ、わたしは思わず「自分やります」と時計を観るのが何より苦手なのにちゃっかり着任しました。この時から段々でしゃばるようになっていったのかなわたしは。
前からか。
反省会はサクサク進み、結論の出ないものはさっさと次回へ持ち越すことになり、無事に終了しました。
その後狙さんには有難うと言っていただけ、わたしは浅ましくもめちゃくちゃ喜んじゃいました。
狙さんと仲良くさせて頂くようになったのはその時からです。
そんな感じで色んな司会者が出るようになりました。
そしてわたしの記憶に間違いがなければ、その頃廬山呉と泰山魏の協力体制が生まれたのではなかったでしょうか。
援軍を送って人数をお互いカバーし、留学して凸連というものを学び、そして蜀の総合優勝を阻止しよう! という目的だったような。
わたしは生意気にも「強くなりたいなら廬山呉に勉強いかないで、最少最弱を覆し今や常勝の廬山魏に留学すべきでは?」なんて思っておりました。
そしてマジにキャラを作りましたがたったの一度しか合戦には出ませんでした。しねばいいのにね。しんだけど。
わたしは一期と二期と三期がゴッチャなので自分が何をしていたのかよく覚えていないのですが
淵舞連合で丹したり盾したりしていたように おも い ま す
記憶ないとかだらしねえなだらしねえ
盟主のKさんは色々な連合の盟主さんと話し愛とかしてらしたのかも知れませんが知らず仕舞い。
こんなこと言うのはずるいと思うが、淵舞に関しては天の利が一番無かったんだと思う。
時期やタイミングというのはやっぱり重要なんだ。
淵舞連合についてもきちんと書こうと思いますそのうち。全部わたしのじこまーんですけれどもね。
最初からですね。
二節は色んな連合が誕生し、連携をとるようになっていったようですが、わたしにはよく解かりませんでした(凡愚
なんだか物凄く長くなったからまた次回にしよう。
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