人の話を聞くはとても良いことだと思います。
当たり前ですが他人は自分とは違った生き物なので、自分とは全く異なった考え方を持っているからです。
どうしても狭まりがちになる己の考えに風穴を開け、或いは別方向からの光を指し、視野を広げてくれるものです。
勿論、それとは逆に、返って考え片の幅を狭めてしまう結果になることもままあります。
どちらの結果に流れるかは、聞き手の熟し具合如何によりましょう。
それはさて置き、他人の話を聞く、ということでとても有効なのは、やはり本を読むことではないでしょうか。
生身の人間と面と向かって話していますと、相手の話が終わらない内にどうしても自分の意見を被せてみたくなってしまいますし、
そうこうするうちに議論が発展して思わぬめっけものをすることもありますが、抱いている思いがまったく伝わらないこともあります。
わたしなぞは根っからせっかちで気性は荒く、頑固で偏屈で猜疑心に溢れているので相手の意見を自分の意見でねじ伏せないと気が済まないきらいがあります。
大変好ましくない癖ですが、一に十で返して相手がぐうの音もでなくなったところに「それみたことか」と返すのが愉快なのです。
なんと卑しい性根でしょうね。
親父ギャグですね、笑うところですね?
当然こんなことをしていては新しい意見には出会えませんね。
出会ったとしても即時的に、自分の中に組み入れることは出来ないでしょう。
一合戦終えた後に初めてゆっくり考えてみるきになるのですから、思考更新の歩みは亀の如しということになります。
その点、書物というのは良いものです。
決して反論に耳を傾けてはくれません。
そして、こちらが理解するまで絶対に先へ進みません。
他者の意見でありながら、自分との問答になるのです。
とにかくお仕舞まで、ちゃんと意見を聞くことが出来るのです。
その上でいくらでも、好きなだけ、自由に討論が出来ます。
さて。
わたしの好きな作家さんである上橋菜穂子さんが、こんな言葉を仰っておられました。
「効果と手抜き」
ある作品に何かが足りないと思えた時、それは効果なのか、手抜きなのか。
物語というのは、語り過ぎてもよくありませんし、語ら無すぎるのも当然駄目です。
どちらかと言うと、語り過ぎているものよりは語らないものの方がわたしはずっと良質だと思います。
上橋先生の「獣の奏者」では、多くのことが語られていません。
三十年程もの歳月が物語の中で流れながら、色色な場面が抜け落ちています。
それこそ、ハリーポッターのように一年一年を描写していったら、何冊になっていたのか解らないだけの時間が流れているのに
この物語は四冊で完結しているのです。
外伝が一冊ありますけれど。
しかし、四冊分の物語ですが実は、作者はもっともっと多くの情景を見、聞き、思っているのです。
それを「書く」か「書かないか」の選択、それが作家の手腕なのだということを、上橋菜穂子さんの言葉で初めて思い知りました。
いろんなありありとした情景があるなら、それを全て言葉にせねば気が済まないじゃない! と思っていたわたしは、正直に申しませば衝撃的なお言葉でした。
勿論、わたしは、獣の奏者の主人公たちの、描かれなかった歳月の間の出来事を、上橋さんの手なる文章で読みたい、読みたいと熱望しています。
でもそれは、望んでもいいけれど結実しないこと、なのです。
今のわたしにその理を言葉にするだけの語彙も文章力もありませんが、それはずしんと理解出来ました。
物語は人の手で生み出されるものですが、野に生きる獣のように、どうしてもはじめっから、なぜか介入を拒む部分が必ず潜んでいます。
まるで、最初から、最後まで、ずっとそこにあったかのように。
筆を落せたことを、あえてそうしなかった意味を考えるという、新たな見方が生まれたので、それを祝して記念に筆記。
ふと、真っ先に思い出したのは、泉鏡花の「草迷宮」でした。
最後があんなに駆け足だったのは……
それでもやっぱり書くのが面倒くさくなったからにしか思えないのですが(´・ω・`)
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