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ゆめのなかでゆめをみて ゆめのつづきをゆめにみる
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こーんちくびーむ。わたしでゲスヽ(゚∀゚Ξ゚∀゚)ノ

おめめかいかい;;

めちゃんこかゆい。

薬貰ってもかゆい;;;;;

3on無いなったせいだ!

しーかたがなーいのでもう一度病院へ行くお(´ω`)

お脳の方の病院へ逝った方がいいかも知れないお(´ω`)

手遅れヽ(゚∀゚Ξ゚∀゚)ノ

手遅れと診断されるのが怖くて定期健診いけないという人の気持ちが、今なら解る気がします。きりっ


さて。

今週の週刊少年ジャンプで連載開始したラクロスの漫画が面白い!

詠み切りの時から面白いなあむほむほと思っていた漫画なのですが、ぱわーあっぽして帰ってきた!

もうね! 主人公のおんにゃのこがモロ好み!!!!!

ちっこくてー頑張り屋さんでー前向きでーめげなくてーででもちょっぴり泣き虫でー本当は無理して笑っててー

そして何よりおかっぱ! 黒髪おかっぱ!!!!

ストラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアイク

くんかくんかぺろぺろちゅっちゅしたいお。

太もももたまりませんなあむほむほ。

ラクロス部の他部員も中中あくが強そうなので二話が楽しみです(*^ω^)もふふ

そして、こいつぁー絶対忘れられてるだろーなーと言うことで、コンビニで「となりの関くん」三巻を購入しました。

はふう横井さんかわいいよ横井さん。横井さんのおっぱいはD以上E未満だと思うの。

ほどよくむちっとしていてとっても好ましい。

本当に関くんと横井さんは良い夫婦(違う意味で)ですね! にっこにこ!

ジョジョリオンの三巻もようやく発売されまんたね!

ダイヤちゃんかわゆいじゃん( ^ω^)

おトイレまでついてきてもいいんじゃよ~ぐへへ。

しかしこう、なんか、どこかでどなたかが「ボーイミーツガールなジョジョ」と仰っておられましたが、きゅんきゅんしますね! やすほたん萌えす!!!!

ジョースケの大事なやすほたん! うほっ

ナビはやすほたんのスタンドだったりするのかしら。

将にジョースケを導く役ってことですね(´∀`*)

もえもえきゅーん。

しかし……

表紙開いてカバー折り込みの作者写真。

やべーってこれ。

まじでやべーって。

若返ってるよ。

百歩譲っても変わってないよ。

ほ、ほ、ほんものだあああああああああああああああああああああ


動画ぺたり。



ふきのとうって歌上手いですよね~(´ω`*)

皆様は、今目に見えているもの、手に触れているもの、それら、自分をとりまいているものを、信じられなくなったことはございますでしょうか。

或いは、この、何かを感じているらしい、自分自身の存在を、そんな自分とまさに今話をしている人の存在を、疑ったことはおありでしょうか。

わたしは、わたしがまだ純真無垢な小学生だった頃に、存在しているとか、見えるとかいうことが信じられなくなったことがあります。

わたしは小学生の頃、休み時間になると図書室へすっ飛んで行くような子供でした。

球技は苦手だし鉄棒で逆上がりも出来ない、小学生としては終わっている子供だったのですが、図書室へ行く時だけは誰よりも足が速かったものです。

そもそもそんな勢いで図書室へ駆けていく子供などおりませんでした。

わたしはその時、とある本を一生懸命に読んでいました。

確かタイトルは「ブッダとシッタカブッダ」だか、「ブッダとシッタカ」だったような気がします。

借りれば良かろうものを、なぜわざわざ休み時間毎に図書館に赴いてそれを読んでいたのか、理由は最早思い出すことも推察することも出来ません。

しかしそんなことはどうでもいいのです。

「ブッダとシッタカブッダ」です。

タイトルから察せる通りに仏教的な啓発系書籍でした。

子供の目には随分新しく感じられたその本を面白く読んでいたわたしは、何か一つ新しいことを覚える度に、教室に帰ってからクラスメイトらに得た知識を披露していました。

しかし、その日、その時。その文章を読んだ衝撃は、あまりにも激しく、友人らに自慢げに語る余裕など有りませんでした。

いつものように本を読み進めていくと、視覚と、脳の関係の話になりました。

網膜には倒立した像が映っている

それだけでわたしは、この世界はまさか、実は元々全部さかさまになっているのだろうか? と心もとない気持ちになりました。

細部の文章は思い出せません。しかしそこにはこのように書かれていました。

「あなたの見ている世界は、あなたの脳に映っている世界であり、現実の世界とは違っている」

ええっ それじゃあ

わたしは愕然として本を凝視しました。

この本も、それからこの本を支えているわたしの手も、ここには実は、存在しないのだろうか?

大慌てで教室へ駆けました。

クラスメイト達は思い思いの姿勢でくつろいでいます。

談笑したり、何かおかしな動きをしている、彼ら、彼女ら全てが、わたしの脳の中の世界で、現実にはいない?

足元が崩れてふわふわ浮いていってしまうような心地になり、わたしは熱に浮かされたようになって叫びました。

「○○ちゃんも××ちゃんもわたしの頭の中にいる! みんなみんなここにいないんだ! みんなわたしの頭の中にあるんだ!」

それはゾっとするような、しかし言い知れぬ昂揚感を覚えさせもする、かつてない虚ろな心地で、クラスメイト達一人一人を指さしては奇声を発しました。

本当の所は、その文章の言わんとしていたのは、

現実の世界を観て取ったとしても、脳に再生された時その映像は、視覚主が取捨選択したものになっているから現実通りではない、ということだったのだろう、と、今は想像がつきます。

例えば愛しい女性を目の前にして、まさに彼女しか見えない! といった心持で向き合った時、

脳に映し出され認識されるのは彼女の顔だとか表情だとかであって、遠景に広がる風景とか通行人の姿は、無いわけではないけれども存在していないくらいの薄さになっているということです。

しかし小学生のわたしは

「この世の全ては自分の頭の中にある」

とそれを読み取ったのです。

永遠に網膜に映った像で認識を繰り返すなら、外界と称すその場所に、目で認識していると感じているなにがしかが存在しているという証明など出来ようはずもなく、また、外界と称すそれ自体が存在していないかも知れぬ。

ならば目に見る、肌に感じる全てはこのわたしの生み出したものであるということになるのに、他人は勿論風も雨も何もかもが全く自分の思いもよらぬ動き方をする。

たった一人で突然真っ白の世界へ放り出されてしまったかのような、しかしそこにある全てが自分の中にあるものなら、

即ち何もかもが「自分自身」だということと言い換えて構わず、それなら怖くはないのだろうか、

いやいや、世界中に誰ひとりも存在していないのはやはり恐ろしい。

しかしその世界とやらは、自分の想像の及ぶ範囲までしかせいぜい広がっていないのだ。

そんな漠然とした巨大な知識は、日が経つ内に薄れ、いつの間にか世の中を常のように過ごせるようにはなっていましたが、それでも「ブッダとシッタカブッダ」のお陰で、事前準備が出来たことは間違いないように思います。

人の数だけ世間があって、そのくせ重なっているように見えて、勘違いしていてもことはうまく運び、それら全てが結局「自分」という誤認存在の中に再生された虚無でしかないということの。


そんなわたしが2007年の10月5日に始めたのが、三國志OnlineというMMORPGでした。

以下待て次回。
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